ルーシーWS、最高です。
いま、岡山県の「かみさいばら温泉」に来ています。
とても、いい場所です。
そこで、ルーシー・アロン博士のウォーク・フォー・ライフの講習会に昨日から参加しています。
ルーシー曰く:
私はモーシェ・フェルデンクライスと16年間一緒に仕事していたが、その間
モーシェが「正しい動きというものはない」ということを言ったのを一度も聞いたことがない。
きっと、フェルデンクライスメソッドが広まるにつれて、そういう言い方をする人が出てきたんだと思う。
もちろん、正しい動きを外から教えてそれに固定されるのは避けたいことだ。
多くの選択肢を体験させることで、体がそのときそのときで最善の選択ができるようにすることが大切だ。
体は自動的にベストなものを選択する。それを邪魔しないように習慣から離れられるようにするのがこのメソッドの戦略だ。
あなたが思っているより、体は賢い!
それが、フェルデンクライスの原理だ。
以上、私はルーシーが言ったことをこのように理解しました。
協会の名簿の件ありがとうございました。
さて、FACEBOOKからこの記事にたどり着いたのですが、ちょっとした疑問と質問が湧いて来ました。
まず、若狭さんは、ルーシーの教えを理解して、どう思ったのか?
そして、疑問です。
『モーシェが「正しい動きというものはない」ということを言ったのを一度も聞いたことがない。』とルーシーさんが仰ったそうなのですが、モーシェは「正しい動きというものがある」ということを言ったの一度でも聞いたことがあるということなのでしょうか?
それとも、そうは言わないがルーシーさんは「正しい動きというものがある」と信じているということなのでしょうか?
出来れば、質問と疑問にお答えください。よろしくお願いします。
また、時間をかけずに書いておりますので、不適切な言葉を使っているかもしれません。その点はお赦しいただいて意図するところを汲んでいただければ、ありがたいです。
モーシェが具体的にどういうことを言ったとルーシーが言ったかは、よく覚えていないですが、
ルーシーは、それぞれの動作においてベストなものがあると思っていると思います。
でも、それは体の中から自然に出てくるもので、教えたり教わったりするものではないと言っていたと思います。
私の考えとしては、
正しい動きという概念に振り回されると、ややこしいことになると思っています。
それぞれの動作とは、
全ての種類の動き(カテゴリー分けして有限のものとして整理できるかもしれませんが、実際は無限にあると思います)であり、
全ての瞬間瞬間に生じる動きのことでもあり、
一人一人の体型や怪我などの制限によって違いがありますので、
それに対して一々正しい動きを論じることは人が活き活きと動き、生活していくことに必要なことでしょうか?
全ての動作において、そんなことをしていたら呼吸すらもどうしていいか判らなくなります。(呼吸については書籍「フェルデンクライス身体訓練法」にてモーシェが触れていたと思います)
とはいえ、人体の構造はどの人も同じようなものなので、それぞれの動作において機能的に優れた動きあるいは正しい動きは究極的にはどの人も同じような動きになると思います。
「正しい動きというものはない」といったとき、こういった機能的に優れた動きなども否定されたように感じる人もいると思います。
姿勢とは固定されたものではなくそれぞれの動作を形という側面から論じたものだと理解しているのですが、姿勢についても同様だと思います。
フェルデンクライスメソッドは人間活動(動物に適応すれば動物の活動)にさまざまな影響を生じさせるものだと思いますが、
正しい姿勢・動きを教えるものではなく、それらが自発的に生じるようにアプローチするものだと思っています。
ルーシーは「Movement Intelligence (動きの知性)」ということを提唱しています。
自分の仕事を、この言葉に集約して表現していくみたいです。
ルーシーは習慣・癖や間違った身体イメージ・自己イメージ・動作イメージなどから解放されることで、自分の中からMovement Intelligenceが正しい動きを生じさせると考えていると思います。
私はルーシーの言ったことは、自分が前々から考えていたことと同様な考えだと思っています。
僕の考えも少し書かせて頂きます。僕自身は「正しい動きというものはない」と云う言葉がとてもしっくりいって、共感できます。
多分英語では、right と云う言葉が使われていたのではないかと思います。ひょっとしたら、翻訳(通訳)に問題があるのではないかと思えたので、調べてみました。
英語の*right[ rit ]には意味に幅があるようで、日本語の正しいにあたる意味の他、健全な,正常な,もっとも適した,などの意味があるそうです。
日本語の「正しい」の方は、「正しいか間違っているか」「 道徳・法律・作法などにかなっている。規範や規準に対して乱れたところがない。」などのように外的な基準が常にあってそれにあっているかどうかが常に問われているように感じます。
正しい事を求められ、正しくなければならないと半ば強制されるような教育を受けて来た僕には、(多分そんな日本人はかなり多いと思いますが。)「正しい」と云う言葉はかなり危険な言葉に思えます。少なくともフェルデンクライス メソッドの世界ではあまり「ふさわしくない」言葉ではないかと強く感じています。
*right[ rit ]
1 (事実・道理・基準・原理に照らして)正しい,正当な;〈判断・意見・行動などが〉正しい,正確な,当を得た;〈人が〉(…するのが)当然の((in doing, to do));((itを主語にして))(…は)当然である((that節))
2 〈人・精神が〉健全な,正常な,正気の.
3 都合のよい,望みどおりの,もっとも適した,ぴったりの,(…に)ふさわしい((for ...))
4 ((話))〈人が〉健康な,体のぐあいがよい
など等、http://dic.yahoo.co.jp/detail?p=right&stype=0&dtype=1 から引用
ただし・い【正しい】[形][文]ただ・し[シク]
1 形や向きがまっすぐである。
形が曲がったりゆがんだりしていない。「線に沿って―・く並べる」
血筋などの乱れがない。「由緒―・い家柄」
2 道理にかなっている。事実に合っている。正確である。「―・い解答のしかた」「―・い内容」「公選法は―・くは公職選挙法という」
3 道徳・法律・作法などにかなっている。規範や規準に対して乱れたところがない。「行いを―・くする」「礼儀―・い態度」「―・い判決」
yahoo辞書から引用
私自身、実際には正しい動きという言葉を使うことは殆どないです。
ずいぶん前、まだニュートラルという言葉が珍しかった頃、
健康体操とかをずいぶんやられている年配の男性がFIを受けに来られて、「ニュートラルな姿勢」を教えて欲しいと言われました。
それは「正しい」を「ニュートラル」という言葉に置き換えただけだと思うということや、
「ニュートラル」とはギアがどこかに入っている状態じゃなくてどの方向にも動ける・動きを変化させられる状態のことだと説明したのですが、
理解できていないようでした。
ニュートラルな位置があるという考え方は、その後、誰かが関節のアライメントとかに使い出したようですが、
フェルデンクライスメソッドの考え方とは違いますよね。わかりやすそうな印象はありますけどね。
言葉だけ勝手に流用されたような気分になってます。
直ぐに反映されないので、その点、ご了承くださいませ。
一時、スパムコメントが多発していて、その対策です。
ご理解いただいているみたいですが、
あらためてよろしくおねがいします。